ホコト随想記(最終回)アーカイブ

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~私の好きな場所 ブックカフェ その6

こんにちは。ホコトのマスター松野です。メールマガジン「ホコト随想記」第6回をお送りします。
前回まで「本のあるカフェ ホコト」オープン時のメニュー作りについて語って参りました。今回はメニュー編の最後として、カレーを追加するに至った経緯について記憶をたどってみようと思います。

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ホコトがオープンしたのは2018年5月、ゴールデンウィーク明けのことでした。初日の開店前にお客様が何人も待っているのを見た時の喜びと緊張感は忘れることができません。

オーダーを受け、お出しして、代金をいただいて背中を見送るまでの一連の流れは何度もイメージしていたのに、いざ本番となると動きがぎこちなく、レジを打つのもお礼を言うのもカクカクしていたと思います。
「ごちそうさまでした」と言ってくださるお客様に「ありがとうございました」と返すのは自然にできたのですが、「ありがとうございました」と言ってくださるお客様につい「ごちそうさまでした」と返してしまってお互い苦笑という事象も発生。あれは恥ずかしい。九官鳥とやりとりしている印象を与えてしまったかもしれません。一緒にするなと九官鳥に言われそうですが。

ともあれ初日は予想以上の来店があり、へとへとになりながらも、この調子なら店をやっていけるぞと明るい気持ちになりました。けれどそれは初日ならではの魔法だったことがすぐ判明しました。二日目からは、店の前を通る人々から「この店何」という視線を浴びながらも、入ってきてくれる方は稀で、入ってくれても店内を見て質問だけして帰ってしまう方もいて、閑散とした日々が続いたのです。

それはまあ予想の範囲内でした。黒っぽい独特な店構えだし、やたら本が並んでいたりして何の店なのかわかりにくい。喫茶店だというのでメニューを見るも、ランチやケーキセットはなく、「豆の恵みトースト」や「ターメリックラテ」など見慣れないものが少数並ぶだけ。それがオープン時の精一杯のメニューだったのですが、ちょっと入りづらいよね、と自分達でも思っていました。

実は、オープンメニューには入れなかったものの自信作といえるものが二つありました。それが「あんバター好きのあんバタートースト」であり「ホコトのミルクティ」です。どちらもマネージャーが情熱をもって練り上げたメニューでした。さっそくあんバタートーストをメニューに追加すると、すぐに主役級の存在感を発揮しました。SNSなどで紹介されると、遠くからわざわざ足を運んでくださるお客様も出てきました。

「あんバター好きのあんバタートースト」という長い名前について。短く枯れたネーミングに走りがちな私とは対照的に、マネージャーは足し算のネーミングが得意です。単なるあんバタートーストと何が違うのか…詳細は不明ですが、自分の考えるベストのあんバターを出すという気迫は伝わります。パンネルの角食を香ばしく焼いてカルピスバターをしみこませ、御座候のつぶあんをのせてさらに焼く。小さな変更はあれど基本は揺るがず、あんバター好きではなかった人もその道に引き込むパワーがありました。

夏が終わるころ満を持して追加したのが「ホコトのミルクティ」。若い頃から英国スタイルで紅茶を飲んできたマネージャーにとって、紅茶といえばミルクティです。コクのあるアッサムを淹れて、牛乳とジャストのバランスで合わせ、二杯分たっぷりお出しする。これこそ自分の考えるベストのミルクティだという主張がこめられています。こちらもファンを獲得し、毎日のように飲みに来てくださる方もいらっしゃいました。

それらと比べると、私の担当するドリンクは普通のネーミングだし、ケーキは「自家製チーズケーキ」とそっけない。名前だけでなく、対象に対する熱量と年季が不足している感じがありました。チーズケーキは優れたテキストを頼りに一生懸命作っていたものの、昔から大好きでずっと焼いていたというわけではありません。コーヒーはと言えば、その美味しさは焙煎の段階で9割出来上がっており、自分が担当する抽出は最後1割の仕上げの作業なんだという意識がありました。だからこそ重要で、奥が深く、神経を遣う作業ではあるのですが。

さてホコト最初の秋を迎えました。その頃にはトーストカフェとして多少知られるようになっていました。あんバター、トリプルバター、黄金バター、豆の恵み、ダブルハムチーズといったレギュラー陣に加え、秋限定の「あん栗バター」が人気でした。読書の秋、食欲の秋というイメージもあり、トーストが充実したブックカフェは喜ばれたのだと思います。

冬になり、寒さ対策としてアラジンの灯油ストーブを導入すると、その柔らかなぬくもりとレトロな雰囲気が店にマッチして、お客様に大変喜ばれました。そのおかげもあってか、寒い季節にもかかわらずたくさんの方が足を運んでくださいました。木枯らしのなか、店内いっぱいのお客様がコーヒーやトーストを楽しみながら、本を読んだり書き物をしたり、静かにそれぞれの時間を過ごしている。その印象的な光景は忘れられません。ブックカフェを開いてよかったと心から思わせる光景でした。

こうして秋と冬は幸福な多忙のうちに過ぎ、季節が一周して春になりました。するとおやおや、みるみるお客様が減ってしまい、梅雨になるとさらに寂しくなりました。蒸し暑い季節にトーストの人気が落ちるのはやむを得ないと、さすがに私たちも気づいてはいました。夏に向かってはアイスやパフェやかき氷やゼリーなど、涼やかなメニューを用意するのが定石です。ところが私たちは冷たいものがあまり得意ではなく、メニュー開発していてもすぐおなかが冷えてしまい、なかなか完成品に辿り着けないのです。

とは言え、何か手を打たなければと思いました。そこで浮上したのがカレーです。ホコトでカレーを出すアイデアはもともとあったのですが、トーストとの両立は難しいと判断してすぐには導入せず、ひそかに温めてきたのです。カレーなら季節を選ばず、栄養も豊富で、ランチ需要にも応えられる。それで行こうと話が決まり、私は俄然やる気になりました。

マネージャーが小麦の申し子だとすれば私はカレーの申し子、と自分で言って恥ずかしくなりますが、それくらい子どもの頃から飽きずにカレーばかり食べてきたのでした。特に長年過ごした旭川では「BOKU」というカレー屋さんに通い、完全手作りの美味しいカレーを食べ続けたことが自分の味覚の基準となりました。やがて自分でも市販のルーを使わずにカレーを作るようになりました。やり出すと大変面白く、いくつもレシピを試したり組み合わせたりして、自分なりに納得のいくチキンカレーのレシピが出来つつありました。

もっともレシピだけではお店でコンスタントにカレーを提供することはできません。リアルな問題として、まずキッチンの作業スペースを増やさなくては、炊飯器や食器を置くこともできないのです。そこで地道に不用品を整理し、特殊サイズのスチールラックを組むことから始めました。マネージャーは「そんなに棚のサイズばかり考えてないでカレーを早く始めましょう。夏が終わってしまいます」とプレッシャーをかけて来ましたが、ここで妥協しては狭いキッチンがいっそう混沌として動きづらくなってしまいます。プレッシャーを受け流し、スムーズに動ける最小限の環境を何とかひねり出しました。

「ホコトカリー」という名前は、私の担当するメニューには珍しく洒落たひねりがありますが、これはある常連さんがつけてくれたのです。ターメリックラテ(改めターメリックミルク)がお好きで、ホコトの空間を心から楽しんでくださる方でしたが、ある日「もうすぐカレーを始めるんです」と伝えたところ、「それは楽しみです。ホコトカリーですね」と言ってくださったのです。名付けという意識はなかったそうですが、あまりにも自然で、イメージがパッと広がる気がしたので、正式なネーミングとして使わせていただいた次第です。

こうして2019年の8月にホコトカリーが加わったことで、選手層が厚くなり、ホコトのメニューの基本形が完成したのでした。私にとっても、幼い頃から大好きだったカレーを自分のレシピで作ってお客様に食べていただけるのは感慨深いものがありました。カレーを加えたことでお昼のお客様が増えたのは予想どおりでしたが、意外なことに午後3時や4時など、中途半端な時間にもカレーの注文をいただくことがよくありました。お仕事や用事の都合で昼食が遅くなったけれど、甘いものではなく栄養のつくものが食べたいというニーズにはまったのだと思います。ホコトカリーは手作りの味。食べてくださった方々の身体に食材の滋養とスパイスの力を届けてくれたと思います。

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ここまで6回に渡り私マスターがブックカフェのことやホコトの店作りについて気ままに語って参りました。私事ですが10月から新しい仕事に就くことになり、今より多少忙しくなることが予想されるため、メルマガを定期的にお送りする自信がありません(何しろ抜群に筆が遅いので。今回も3日がかりで書いております)。そこでいったんバトンをマネージャーに渡します。私はそのうち復活するかも知れないし、しないかも知れません。

これまでお付き合いくださり本当にありがとうございました!
これからも「ホコト」をよろしくお願いいたします。

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今回も1曲お送りしてお開きにしましょう。

ビル・エヴァンスという偉大なジャズピアニストの音楽に10代の頃から惹きつけられて来ました。この頃愛聴しているのが” I Will Say Goodbye “というアルバムです。

じっくり歌うバラードも素晴らしいですが、アルバムの最後に収められた軽快なワルツが何とも粋なんです。秋の青空のようなカラッとした明るさと、その奥にぽっかりと広がる寂しさ。深い余韻。

ミシェル・ルグラン作曲 ”Orson’s Theme”
ビル・エヴァンス・トリオ
(ビル・エヴァンス、エディ・ゴメス、エリオット・ジグムンド)

♪Youtubeはこちら
https://www.youtube.com/watch?v=EqPsjQC1k6c

♪Spotifyはこちら
https://open.spotify.com/track/6pygIOOZn4i5PkoeeNtPa2?si=0330657d89e341df


2022年9月17日 メルマガ配信



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